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エッセイ

【原発作業員の肖像】その1ー 震災直後

今日は、泣かないと決めていた。

京都 四条烏丸にある、小さなアートギャラリーで行われている、原発作業員のポートレート展の関連イベントとして、実際に福島原発で働く方の話をきくトークイベントだ。

小さなスペースにブルーシートを敷いて、会場には、30〜40人は集まっていただろうか。

話し始めたのは(仮にAさんとでもしておこう。誓約書の関係もあるだろうから、念のため、匿名で)、フツーのお兄さんだ。
フツーの、イマドキの。40代前半。
ハーフパンツにシャツ。引き締まった体躯に、おしゃれな眼鏡という出で立ちは、社会人のお休みの日のそのままだ。

頭の片隅で、ちょっと近寄り難い、怖そうな人がでてくるんじゃないか、と勝手に想像していた私は、正直、拍子抜けした。

【震災直後】
震災当時、福島県双葉郡富岡町に住んでいたAさん。

福島第二原子力発電所が立地する町。
太平洋に面し、町内には、5000本の桜がみごとなトンネルをつくる、東北随一の桜の名所 夜の森公園を有する。
現在は、原発から半径20キロ圏内にある為、警戒区域に指定され、許可なく立ち入る事はできない。

地震直後の様子から、地図を背に丁寧に説明を始めた。

「地震と津波のあと、原発が危ないってことは誰も思っていなかった。
役場も混乱していたし、情報が入ってくるなんてことはなかった。」

「翌朝の6時、停電で真っ暗な中、防災無線が鳴り響いて、” 原発が非常に危険な状態なので、全員川内村へ避難して下さい ”と指示があった。

隣村の川内村へ向かう道路は一本。
早朝6時から午後3時まで、大渋滞で動けなかったという。

一旦、川内村へ入ってみれば、受け入れ態勢は万全だった。
何にも情報がなかったから、みんなでテレビにかじりついた。

そして、みんなが見つめるテレビの映像の中で、福島第一原発一号機が、爆発した。

みんなパニックになった。

郡山の避難所 ビッグパレット(郡山市内の複合コンペティション施設)への避難指示が出された。

最早、ガソリンは手に入らない状態だったが、家族をより安全な神奈川県の親類宅へまず送り、避難所へ入った。

郡山へ向かうその道路脇で、早朝の時点で既に、タイベック(放射線を帯びた粉塵の皮膚等への付着を防ぐ、白い防護服)と全面マスクで、東電社員と警察が誘導している姿が、嫌に印象的だった、とAさんは、語る。

こうして、避難生活は始まった。
当初、川内村で、「我々が、あなた方を守りますから」と演説をした警察本部が、F1(福島第一原発一号機)の爆発を受けて何も言わずに撤退した。

住民の中には、パニックと不安だけが深く染み渡っていった。

【原発作業員の肖像】その2ー 地元への想い

【初めての一時帰宅】
家を離れた3月12日以降、初めて自宅へと帰ったのは、2週間後の3月25日の事。もちろん、高い放射線量が検出されていた。

泥棒が横行していた。

長靴と、コンビニで買ったレインコートを着たけれど、すぐに捨てた。
ばかばかしい。

そして、こう言い聞かせた。
「ただちに、健康に影響はない」と。

家を離れた時は、着の身着のまま。
地震の片付けもしていない。
ぐちゃぐちゃのままだから、何か盗られたかわからないけれど、でも、確実に泥棒はいた。
不審な他県ナンバーの車や、人影を見た。
もう、無法地帯だった。

検問はやっていたけど、全く無意味だった。
立ち入る必要のない他県ナンバーでも、関係なく通す。

そんな状況の中で、Aさんらは、自警団を組織した。
「自分たちで守らなきゃ、どうするんだ」との思いが、活動へと集約していった。

【広野からF1へ】
震災当時は、原発と無縁の営業系の仕事をしていたAさんは、まず、広野火力発電所(双葉郡双葉町)の復旧作業員として働いた。

広野火力は、震災直後全号機が運転停止となり、構内には広範囲に渡ってがれきが散乱するなど、大きな被害があった。

しかし、同年7月、震災後からわずか4ヶ月で全号機運転を再開するという驚異的な復旧を遂げたのは、作業員の懸命の労働の結果だと、Aさんは語る。

広野では、事故直後から、アメリカ軍が事故調査を始めていたという。

その後、Aさんは、富岡町の、家屋の屋根の修理に従事する。
地震で崩れた屋根から雨漏り等して、家屋が傷まない様に、補修する作業だ。

白い防塵防護服を着て、チーム長だけがアラームのみを所持する。
線量はもちろん、高い。

指定ルートから外れると、逮捕されるというエリアでの作業。

発注元は、東電だ。

実は、Aさんは20代の頃、F1で働いていた事があるという。
しかし、東電の企業体質が嫌になって、辞めた。

今回も東電の理論に、憤りやばかばかしさを感じる事も多々あった。

でも、なぜ、あえてその仕事を選んだのか。
「富岡町が、毎日見えるんですよ」
それだけで、それだけの理由で、自分を納得させての作業だった。

自分の歴史もそこにあるし、先祖代々受け継がれたものを持つ人もいる。

「除染すれば帰れるなんて、ただの夢に逃げているだけ。無理でしょ?どう考えても。どんなに戻りたいと思ったとしても」

状況とは逆に、引き裂かれる様につのる地元への愛着。
「自分達でできる事を、自分達でやるしかない」そう決心した。

そして、2011年12月、収束作業員として、再びF1へと足を踏み入れた。

【原発作業員の肖像】その3−これから先のこと

【再びの一時帰宅】
ここからは、今年の5月下旬、再びAさんが、一時帰宅した時に撮影された映像と共に、話が進められた。

許可された時間は、6時間。
行き帰りは、2時間。
自宅での滞在時間は、たったの4時間と言う事になる。

車を走らせて村内へ入るに連れて、放射線測定器の数値がみるみる上がっていく。

F1の前は、13マイクロシーベルト/毎時。
順に、21、25、29、31と上がっていった。
「おもしろいように跳ね上がるよねー」とで車内で会話が交わされる。
この数値は、郡山の30倍らしい。
そして、京都の300倍だそうだ。

自宅へ到着した時は、0.97マイクロシーベルト/毎時。
去年は、4マイクロシーベルト/毎時だったから、一応下がったと言う事か。

閉めたはずの玄関の扉が開いている。下駄箱も開いている。
にわかには信じ難いが、やはり犯罪はどこにでも存在するようだ。

「廃墟だよ」と呟きながら、家の中へ進む。
冷蔵庫もそのままだから(もちろん通電していない)とんでもなくって、開けられない。どうなっているのか怖いと話す。

足の踏み場もない室内。
マスクと防護服は、着ていない。

庭で、Aさんは、突然草を刈り始めた。
伸び放題の雑草。
そんな事をしても何も足しにならない。
その映像を見ながら「ああいう時って、何をし始めるかわかんないんですよね。自分でも、なぜこうしたのかわかりません」とAさんは笑った。

たった4時間しか滞在が許されない一時帰宅。
食事をとったり、寛いだり、眠ったりする事はできない。
それなのに、どうして帰るのかという問いに
「帰るのは、部屋見たり、町見たりして、ここで生活してたんだな、と確認するだけです。全ては朽ちていくだけですけどね」と、答えてくれた。

【希望】
自殺者の報道も出ている中、Aさんの希望は何ですか?との質問があった。

「精神的に沈むのは、当たり前なんですよ。一時帰宅をすればするほど、虚しさとか、絶望感は増します。とにかく、精神的なケアがほしい。」

「外で遊べない子ども達はもちろん、作業員にも。強い精神力を以て作業にあたっている自分の同志ですが、心のケアが必要です。継続的に心のケアがあること。今の自分の希望です。」

【国に対して】
最後に、私も質問した。
「今、東電に対して、国に対して、一番言いたいことはどんなことですか?」

Aさんは、静かに語り始めた。

「今、20キロ圏内の作業で手一杯なんです。毎日、毎日いろんな事を考えてます。原発事故のせいで、こんな思いをさせられたけど、今迄、経済を牛耳ってきた大きな流れの中でこうなってる。

このエリアに住んでいる人間は、巨大な力が働いているのを、嫌と言うほど見ている。正直、ああまたか、と言う思い。

どんなに力を出しても、国は変わらない。

人が住めない地域、国土からぽっかり20キロ圏内がなくなっても、なんとも思わないんですよ。」

そして、よく日に灼けた口元を歪ませて、声を殺した嗚咽の向こうから、「悔しいです」と絞り出す様に言った。

被災地では、絶対にみせないという、涙。
その男気から、多くの人に慕われ、頼られ、思いを背負っている。

「ここは安全な場所。本当は20キロ圏内で活動したい」とAさんは話した。そこは、仲間がいる場所。人生が詰まった場所。

【本当に変えなきゃいけないもの】
最後に、小原カメラマンが、言葉を合わせてくれた。
「原子力から自然エネルギーにシフトしたって、根本は何も変わっちゃいないんです。
こんな社会をつくってきた大人の責任として、子ども達に何を提供してあげられるか。建設的に進めていきたい。」

【原発作業員】その4ー感想

今日は、泣かないと決めていたから。

Aさんが、こらえながら、耐えながら、最後まできっちり思いを語ってくれたから、私も唇を噛み締めて我慢した。

本当は、許されるのなら、声をあげて泣きたかった。

どんなレポートや記事より、生々しく大きな衝撃だった。

人生全てを一瞬にして奪われた彼らのことを理解するなんて、到底無理な話だ。
でも、実感として一歩近づく事ができたかもしれない。
ほんのすこしだけ。

「東京でも、話してくれませんか?」そう問いかけた事に、Aさん、小原さん共に「NO」だった。

訳をきいた。
頭を殴られた様な衝撃だった。

震災以降、東京でつらい思いをたくさんしてきた。
聞くだけで、ひどい話だった。

それを思うと、「反原発って、結局は自分のところに被害が及ぶから反対してるだけじゃないですか」との声に、私は何にも反論できなかった。

福島の事を、真剣に知ろうとしているか。
福島の事を、真剣に考えようとしているか。

上辺だけの言葉は要らないと、突きつけられた。

東京のメディアに取材を受けた時の事を話してくれた。
ストーリー通りに要求され、思惑通りに編集される。

メディアは、被災地の声を伝えていないのではなく、被災地の声さえもエンターテイメントにしようとしていたのだ。

東京へと帰る新幹線の中で、身体が震えてきた。
身体の中に黒いコールタールが詰まったようだった。
自分には、帰る場所がある。
でも彼らには、変える場所も、逃げる場所もない。

彼らは、ヒーローなんかではなかった。特別な人たちでもなかった。
国家や東電など大きな権力に対する絶望感、諦め。
そして、日常生活全てが詰まった、地元への大きな愛着。
「自分たちで、できることをやるしかない」と。
目の前の事に、自分たちで対処しようという、その思いだけだ。

全てを一瞬にして奪われた人たちの前には、全てが虚しく、ハリボテのような世界に思えてくる。

これほど、私を変えたのは、生のことばだから。
一人でも多くの人に、直接、聞いてもらいたい。

でも私でさえも、この日見た事、聞いた事はわかってもらえる人にしか話たくない、と思ったのだ。
当人ならなおさらだろう。

でも、私はAさんに話してもらいたい。
私自身、もっと聞きたい。
もっと知りたい。

圧倒的な絶望感を前に、なにもできない。
でも、知る事が重要だ。
そして、彼らをひとりぼっちにしないこと。
これだけが、今の自分にできること。

Aさん、とにかく、とにかくお身体だけは、大事にしてください。

追記

京都でAさんの話をきいて、「電気」に対して一つだけ気持ちが変わった事がある。

私は暗いところが苦手で、割と各所、電気をつけるほうだが、こまめに消す様になった。

「これって、Aさんが作業した広野火力でつくられた電気かもしれない」と思ったり。

まるで、野菜は農家に、魚は漁師に感謝するみたいに、
電気も「誰か」が作っているのだ、と思うようになった。

今考えると、当たり前すぎて不思議に思えてくるのだが。

それほど、電気に興味関心がなかったのか。

 

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