Life History
吉見由香の波瀾万丈、列記してみればトルに足らない半生をご紹介
某年 4月19日 大阪市 天王寺区に 出生
共に奄美大島出身のヨシミ夫妻の次女として生まれる。
父が「またオンナか」と言って、看護師さんに怒られたとか、怒られなかったとか…..
ジンセイ途中まで“女子っぽさ”とは全く無縁だったのは、これが起点かもしれないという疑惑もあり。実は、伝説の名馬 テンポイント と同じ誕生日。後々競馬を担当する際のココロの拠り所となる。
東大阪市立 森河内小学校 入学
成績優秀。品行方正。言う事なしの優等生。 全く以て、オモシロミのない人間でした。
放送委員を務め、運動会では実況放送を担当。
来賓の市議会議員さんが、大絶賛。 ここから私の人生、大いなる勘違いの旅が始まるのである….
東大阪市立 高井田中学校 入学
順調に反抗期を迎え、才媛の誉れ高きヨシミ嬢も、全く勉強しなくなる。 特に数学のすっ飛ばし感は絶大で、成績がた落ち。
ここでもう少しマジメにやっていれば(そこそこ)恐いものなしのジンセイだったのではなかろうか、と悔やんでも悔やみきれない。
因みに、小学校時代から続けてきた演劇は、劇団でのお稽古を継続。愛読書は、もちろん「ガラスの仮面」。(今でも全巻所有。因みに亜弓さん派)
大阪府立 布施高等学校 入学
大阪 第5学区で上から5番目。決して優秀ではない。
因みに3つ年上の姉と同じ学校に入学。この非常に優秀でタフな姉との関係性が、自己認識を狂わせる大きな要因となる。お姉ちゃん、えらい。
芝居をしたり、バンドをしたり、ライブハウスに入り浸ったりの高校生活。学生運動を引きずり、「自由とはなんだ?」を熱心に議論する(当時は)自由な校風 だった布施高でのあまりの放牧っぷりに、母親が見かねて、英会話スクールへ通わせる。
東京裁判で亡くなった母の叔父の遺言に「これからは英語くらい身につけておかないとダメな世の中になる」とあったそうで、その言葉に従ったらしい。
今、英語に対して拒否反応がないのは、全てはこのお蔭。 正善おじさん、ありがとう。
高校2年の夏、イギリスへ。ホームステイ先の夕食がりんご1個と豆ちょっと、 とかイギリス一般家庭の貧食ぷりに、びっくりする(まわりも同じだった)。
受験時代
わが母校は高3の夏まで(当時)創造祭と言う名の学園祭で青春を謳歌し、4年制(3年+予備校)がデフォルト。全力でそれを阻止すべく、受験モードに突入。
1番前の席だったにも関わらず、堂々と予備校のテキストを授業中に広げ、受験勉強に励むという、暴挙を展開。
中学時代の愚行が祟って、数学、代数幾何、物理、化学、全くできず。文系学校 トップクラス、片や理系は学年べべた(大阪弁でびり)という見事なアシメントリーを描く。
そんな中、関西きってのステキ女子が集まる神戸女学院に合格!!
奇跡は起こる!!超マグレ!!神さまはいる!!(成績は、あと4点足りなけれ ばアウトー!の崖っぷち)
「布施高、始まって以来の快挙!」との声に鼻高々だったりするが、全く点の取れない数学の卒業試験。「大学に合格しているから、通してやって下さい!」と 卒業判定会議で担任の先生が、頭を下げて下さったご恩は一生忘れません。 武林茂樹先生、ありがとうございます。
神戸女学院大学 文学部 入学
関西屈指のディープエリア 東大阪とのカルチャーギャップに愕然とする。ばらの花のジャムとお紅茶だけを口にして生活している様な聖ミカエル学園(川原泉 先生のファンならわかる)を、地でいく生活。
どうしようもなく煮詰まったヨシミ嬢は、サークル活動に活路を見出す。
その名も「日本国際学生協会」(通称 ISA)。
パリやミラノでブランドショッピングにいそしむ学友を尻目に、バックパックを背負い、タイやネパールなど、アジア各国を放浪。
ここで先輩方に“ひとり旅のお作法”を学ぶ。この教示がなかったら、ひとりでふらふら旅にでることはできなかったでしょう。先輩方に感謝。
日韓学生会議では実行委員長を務め、言語や文化を学ぶ。今の様な韓流ブームがよもや来ようとは…..
安聖基(あん・そんき)と ソテジ&Boys が好きと韓国人に今話すと 「この人、いつの時代の人….?」と、どん引きされる。
その一方、かつて日本の3大秀才を謳われた(らしい)内田隆三先生のゼミにおしかけ、ゼミ生選抜試験をスキップ。図々しい。吉本隆明、ミシェル・フーコー、 柳田国男、多木浩二、見田宗介、マクルーハンやハンチントン等、様々な文献を 読む….いや、目でなぞるが、全く以て理解不能。
で・も。社会の枠組みを捉える思考方法を学んだ様な気がする。
今では本棚のアクセサリー。誇らしげに かしこ本が並んでます。
因みに、ご活躍の内田樹先生は、4年間フランス語学ゼミでご教授頂きました。 ソシュールの一般言語学概論なんて、原語で購読なんかしちゃったりして、もう 意味不明….
とにかく、愛と平和な女学院ライフ。ほんと、いい学校です。
局アナ受験
大学時代にちょっとしたご縁で受けたオーディションに合格し、毎日放送 選抜高校野球のアルプスリポーターとしてデビュー。
実は、本当は芝居が好きだったんだけど、天才には勝てないと尻尾を巻き「表現されたものを伝える」仕事に就こう決意。
今から思えば、大した努力もしなかったくせに….なんて思ったりする。
時折しも就職氷河期。関西圏の準キー局全て女子アナの採用なしの中、なんとか 京都放送に内定。割にラジオになじんでいた私の志望としては「関西」の「ラジオ・テレビ兼営局」。今としたらかなり無謀。でも一応叶った訳だ。
実は、本人の全く知らないところで、ちょっとしたご縁をいただき本人がモロッコ サハラ砂漠をふらふらしている時、京都放送から呼び出しがあり、連絡がつかない私に、母親が生涯最高に焦りまくったというおまけ付き。お母さん、ごめんね….。
京都放送(KBS京都)入社
晴れて“女子アナ”に!当時、アナウンス部には、女性は18年上の先輩方2人しかおらず、大いなる期待と注目と重圧を背負う。
この在局時代に、アナウンサーとして、放送人としての基礎を叩き込まれました。 感謝してます。
「これやから大阪のお子は」と言われつつ、自分のダメさ加減に絶望しつつ、涙 涙の4年間でした。
頑張ったことは …. 競馬と….競馬。
大阪にて
フリーランスに。
毎日放送と朝日放送、両方で帯番組を持つ、なんてオバケな事を経験しつつ、フリーランスの魔境にはまる。
ここで「信頼関係」が一番と、大事な事を学ぶ。身の丈サイズの現場に戻りたく、出身地の東大阪ケーブルテレビでの勤務を開始。
人との距離が近く、関係が濃密な東大阪で、初めて「人の中へ一歩踏み出す」・「人に触れる」事を実感。
離職時には、東大阪市長から「広報活動に多大なる貢献をした」と、公式感謝状を拝受。
この時期、上方落語(ひいてはお笑い全般)にはまる。ばかばかしい事を全力で、 マジメに楽しむ、というお笑い観・人生観が構築されたのは、この時期。
月に3回は落語会へ。夢はお茶子をやること。いつかめくりの文字を学びたい。
そうそう。大好きな漫才師さんと共演したとき、舞台上で「うまいこと言いますね」と言われたのは、宝モノです。
東京転居
家庭の事情により東京へと転居。強制江戸送り。東京と大阪、たいして違わない なんて思っていたが、大衝撃。「日本には、東京とそれ以外しかない」と実感。
関西弁が懐かしく、「ふるさとの訛り懐かし 落語会の 人ごみの中に そを 聞きにいく」ですよ、ほんと。
仕事も思い通りになかなかいかず、海でも潜ってみようと、スキューバダイビングを始める。
時間が有り余っているので、人生最悪に苦手な事に挑戦しようと、 踊り(クラシックバレエ)を始める。
もう一度「表現」をやってみたいと、歌のお稽古を始める。
徐々に大都会トーキョーに気負けする事もなくなり、仕事もだんだん回り始める。
そのきっかけは、2011年学生時代からの人生最大の恩師 杉村太郎氏との再会。
師に赤ペンを入れてもらう為、表参道に通った夏の日々。師が病床から下さった 電話。「由香さん、これからだから」。このことばの魔法に、わたしはかかって いる。その3週間後、太郎さん、永眠。志を継ぐなんて大きな事は言えないけど、 また絶対逢えると信じている。
ありがとうはその時に。