「アンナ・カレーニナ」鑑賞後、カメラマン 小原一真さんの写真展に伺った。

小原一真さんは、京都で写真展「原発作業の肖像」で、その作品と志に触れ、大きな衝撃を受けた。

(詳しくは http://yukayoshimi.com/contents/article.php?id=1078  参照)

Facebook等で、小原さんのその後の活動は気に留めていたのだが、

今回、東京 に於いて写真展を行うというので、在廊する時間を見計らって、渋谷まで足を運んだ。

PARCOの奥の店舗スペースに並べられた写真。

門外漢の私は、写真の良し悪しは、正直、よくわからない。

ただ、小原さんの写真は、キャプションというのだろうか、短い説明書きと共に、確実にエモーショナルなのだ。

世界報道写真展によく見る海外の新聞の一面を飾るような、一目で、見る者にインパクトを与えるようなセンセーショナルな写真とは、またジャンルが違って、

静かに一瞬を切り取った写真。

そこに、簡単に添えられた短文が絡み合って、静かな波動となって、体内を揺さぶるのだ。
静かに、ゆっくり、確実に。

今回は、あの日から二年を迎えた被災地に対して、自分自身の向き合い方を改めて考え、撮影した写真が並んだ。

今回、初めて手にしたという、ハッセルブラッドで撮影された温かみを感じる、ポートレート。

だからだろうか。

彼らの真正面に立つと、被災直後の恐怖や怒り、切羽詰まった空気とは、ちょっと違った少し緩んだ心を感じた。

でも、その弛緩は、きっと諦めにつながっているのだろう。達観というか、目の前に広がる圧倒的に無慈悲な事実。

どう頑張っても覆しようない、残酷な現実。

受け入れ、それに流され、背負っていくしかない日常。孤独。

切なさ、やり切れなさが、画面以上の大きさを以って、迫ってくる。

その中で印象的だったのは、
福島の中学生の女の子のことば。

「どんな大人になりたい?」

彼女は「責任を押し付け合うオトナにはなりたくない」

小原さんから京都で聴いたお話の最後のくだりを思い出した。

「自然エネルギーになろうと、発送電分離になろうと、結局は社会が変わらないと、なんの問題解決にもならないんです。」

今、日本に広がる偏った社会システム。そこに根付くニンゲンの思考・行動パターン。

そこを、変えなければ、正さなければ、結局、同じ事の繰り返しなのだ。

その根本が、先の彼女の発言「責任を押し付け合うオトナ」なのだ。

先ごろ、誰も何の責任も取らない、という状況に遭遇した。

どれだけもがこうと、叫ぼうと、どうしようもない、絶望感。

唯一、私を支えた事は、寄り添ってくれる人の存在であり、言葉だった。

大きな流れには、流されるしか方法はない。
それは、時には仕方ない。
社会なんて、そんなものだ。

そこに呑まれないようにするには、その中で、しっかりと自分の足で立っていられるためには、寄り添ってくれる人の存在と言葉が、何より大切だった。

だから、忘れない。

こんなちっぽけな自分に、何もできる事はない。

でも、私は寄り添ってくれる存在が、どれだけ大きいかを知っている。

これしか出来ないけども、それさえも出来ない自分にはなりたくない。

もちろん、福島の問題以外でも。

日本が原発を輸出するベトナムの写真等を拝見して、色々お話を伺ったあと、「頑張ってください」と小原さんと握手を交わして、その場を後にした。

Twitterにしたためた言葉は「小原さんの追っている問題は、軸をずらせば、我々のすぐそばに、どこにでもある問題だ」。

同じ事象をどう切るか。
その視線が重要だ。

小原さんの立脚点はとても説得力に溢れている。

 

小原さん撮影。あげて大丈夫かな?

 

ぶれちゃったけど。展示スペースの片隅におかれていた、小原さんの相棒。