震災報道に関わり、精神的に大きな影響を受けた記者、ディレクターや、阪神も含めての被災者の姿を少なからず見てると、気持ちの入っていない震災報道には、完全拒否感。
じゃ、やらんでええよ。任じゃないんやろうし、と思う。
私が取材した阪神大震災の被災者や、お話を伺った原発作業員。あの方の前には中途半端な気持ちでは、立てない。突きつけられた。
「お前は俺らを飯の種にしたいだけなんか?」と。その本気と同じ熱量じゃないと、本気は話してくれなかった。
そこは敏感に感じとられた。
先日、仙台からの生放送を企画したプロデューサー氏と、その事を立ち話。
なぜ企画したのか、どれだけ時間とアタマを使って仕込んでいるのか、何をしたいのか、短時間のうちに伝わってきた。
何事もなかったかのような東京の生活。風化は怖い。
でも、だからこそ、中途半端では失礼極まりないと思う。
だからこそ、演者・制作者が、それぞれの本気を持って、震災報道に関わらないと、中途半端なものになる。
ぺっらぺらな心持ちは、リスナーにはきっちり伝わる。
普段から、そのアツサをちゃんと感じ取る人たちだから。
だから、そこを感じるリスナーは、演者、制作者と同義。一緒に番組を作っている。
そして。もうひとつ。
そのプロデューサー氏は「僕らは阪神の被災者の事は忘れてしまって何もできなかったから」。
身近な人の痛みを自分の痛みに。そして、同じ経験をした人の痛みを自分の痛みに感じる事ができる。それを、社会的役割な仕事に落とし込める。
芯の通ったラジオマンで、ありたいと思うし、そんなラジオマンと共に仕事をしたい。